2014年 05月 11日
1964年・$500と¥30000の旅
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 考えるところあって50年前の旅の日記帳をブログに連載することにしました。当時は8ミリムービーに熱中していたので静止画像は多くありません。そのためどちらかというと文字主体になります。長くなったらHPの方に移動するかもしれません。1ドル360円時代の貧乏旅行でしたが旅の相棒は同級生の須佐美康治氏です。原文を尊重し訂正は最少に止めました。

 学生時代からパスポートなしで行ける海外旅行だなどといって、ニセコにスキーにいったり、本土返還になった奄美に出かけたりしていました。ヨーロッパのスキー場のパンフレットなどは貴重品のように取り扱っていました。1950年代に入るとトニーザイラーアルペン3冠王、猪谷千春のアルペン入賞、自分自身のスキー連盟指導員などが続いていました。

 時を同じくして歯科臨床の方ではタービンやエアーモーターが導入されて、長い間歯科用ユニットのてっぺんに鎮座していた電気エンジンが消えて座位診療への移行が始まりました。診療室の設計は抜本的に見直されることになり診療システムの変革が急速に進み始めました。1964年東京オリンピックは社会全体の変革の節目でもあったのです。 こうした流れのなかで1967年に新築移転を控えていたわれわれは、情報収集と技術導入のラストチャンスを迎えようとしていたのです。

 ようやく訪れた海外渡航には総力を挙げて、仕事から遊びまでどん欲に取り入れたいと正月休みを延長して欲張った計画を立てました。カメラは3台、重量制限でスキーのビンディングは外してコートのポケットにいれるなどしてワイキキの浜を歩き、サンフランシスコ、ロスアンジェルス、ニューヨーク、ボストンを経由し、コペンハーゲンからスイス、オーストリアのスキー場を巡り、最後は南回りでバンコック、シンガポールで途中下車して、1964年クリスマスから翌年1月末までの40日間でした。吞みすぎだ、睡眠不足だ、と泣き言はしばしばでてきますが、何とか無事帰ってこれたのは33才という若さだったからでしょう。
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 上の画像は当時もっとも影響を受けた小田実、スキーの片桐匡さんの著書と、最後のポスト型のユニットとなったCenntury unitと先端を走り始めたスペースラインで模索していた仮オフィスです。長期休暇が取りやすいこと、スキーをしたいことで躊躇なく暮れから正月を選びましたが、このことが様々なネックになって目的遂行をさまたげることになりますが、タイミングだけはベストでした。

by my-pixy | 2014-05-11 12:08


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