2014年 06月 01日
旅の終わり
1月26日
 朝6:30慌ただしくSがパリへ飛ぶため部屋を出てゆく。寝ぼけ眼で別れの挨拶をする。ちょうど一ヶ月何のトラブルもなく快適な旅を続けてこられた事に感謝する。色々な点で一人では考えられない一ヶ月だった。また他のパートナーを考える事もきわめて難しい旅だったと思う。今日から僅か数日ではあるが一人の旅が始まる。これもまた楽しみだ。
 8:30起床、駅に荷物を預けて町を3時間ほどうろつく。Zurichは古く美しい町だとしみじみ思う。Central stationの前の綺麗な堀に白鳥やカモメや鴨などが群がっている。スイスの都会そしてコペンなどでも見慣れた風景だが、日本に帰る日が迫ってきた今、こういった情景をいとおしむことひとしおだ。
 あとどれだけの時があれば、こういうシーンをが日本でも見られるようになるだろうかと思うと淋しくなる。JALからSwiss Airへの変更などもあったので、さすが一人で乗込む飛行場での1時間は心配だった。ジュネーヴ経由でベイルートへ。途中空から見るアルプス、特にかすめるようにして飛んだモンブランは圧巻だった。ただ席が真中で充分見たり写真を撮ったり出来ないのは残念だった。ジュネーブでインド人と覚しき連中が大分増える。ほとんど満員なのに5列のシートのせいかSASのDC-8のような窮屈さは感じない。N.Y-コペンの時の東南アジア人と同様、前のインド人らしい3人連れがうるさい。少数だがこういったマナーに関しては欧米人との差がひどい。両横の英国人達の細かい気の使い方とは雲泥の差だ。右側の大学院の学生と覚しき2人連れと時々話しながら時を過ごす。地中海の夕焼けが美しい。ランチにZurichで食べたいと思いながら食べられなかった肉とゼラチンを入れたパンにありつき満足。

 スキーで、歯科診療で、その他の生活それぞれに日本のそれとはかけ離れた素晴らしいものを沢山見た。そして啓蒙させられるところが多かった。しかし結局日本で生活しなければならない。スキーも日本でほとんどしなければならない。ではどうすればよいか。子供には早い中に海外で生活させたいと思う。これは自分の夢をせめて彼によってでも達したいという単純なもの。何処でどの位の期間?難しい。言葉のハンディを痛感。日本語は損だ。何かにつけて日本は人間が多すぎる。

50年後・2014.6.4
 こんなことを考えながら深い眠りに陥ったようで日記は突然途切れている。南周りのボンベイ、カラチなどで、薄暗い空港の中を全員裸足の空港職員が動き回っていたことや、トイレに子供を抱いた女性がチップをもらおうとうずくまっているのを見て、始めて遠くに来ていたのだと思った。シンガポールでは何とか安ホテルに泊まったが、ここで有り金はすべて使い果たし、バンコックの居候先の知人に頼んで、フィルムの無くなった8ミリカメラを売ってもらって、貧乏生活から脱出したことを覚えている。
 一方、安全策で北回りを選んだS氏も空港カウンターで盗難事件とか。旅行中は日々相手との残高照合を怠らなかったのだが、この時どれほどだったかは今も聞いていない。持ち出し金の調達は何とかできたが,その他に航空運賃などさまざまな出費をよくもかき集めたものだと思うし、男2名、行く先々での居候先の方々には大きなご迷惑をかけお礼の言葉もない。お陰様で50年後の今日に及ぶとてつもないプレゼントを頂き高度成長の波にのることができた。

 旅のパートナーで今回も突然のブログ公開のため埋もれている資料発掘に甚大な努力をして頂いたS氏こと須佐美康治君に、最後のひと言をとお願いしましたが次のメールがきました。
「私の役目はもう先ほど終わりました。
考えたあげく、あの時は、どうしても行きたくなって行ったとしか言いよう
がありません。どう考えても理由はそれだけ、理屈ではないのです。
そして、いろいろあってたいへん面白かったとも思っています。


by my-pixy | 2014-06-01 08:47


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