2006年 12月 13日
ペリオ ( RPD.8 )
f0103459_1818538.jpg 戦争直後の食糧難生活にくらべれば格段に情況は改善されたとはいえ、私の歯科大学時代はまだまだ空腹を引きずっていました。1955年の卒業時には肉体的な空腹からは抜け出していましたが、歯科臨床の知識も技術も戦前を引きずっていました。

当時の大学で習ったことで現在も残っている技術は皆無といってもよいでしょう。知り合い先輩を尋ねて耳学問で何かを学んでくるという、その日暮らしが10年近く続きました。同じ頃、限られた情報を増やしたいと、クラスメート間の勉強会も始めました。

 大きく流れが変わったのは1965年の海外渡航の自由化で、人と情報の流れは急速に変わりました。戦火にさらされた日本やヨーロッパが一歩出遅れる中、メタルボンドや全顎補綴など最新の技術や材料が、アメリカから一気に流入してきました。空腹の孤児達は群がってそれに飛びつきました。何といっても補綴の話題が目新しく、その吸収に追われて、歯周治療に目がいくようになるには10年ほどが過ぎていきました。

 臨床現場でブラッシング指導などは行っていましたが、あくまでそれは虫歯防止のためで、歯周病治療としての効用も分からなければ、プラークコントロールという言葉も初耳でした。そんな中で行われていたパーシャル・デンチャーですから、動揺歯に負担をかけまいと、おかしな緩圧装置などという発想に流れていったのでしょう。
 緩圧には騙されませんでしたが、ペリオの知識欠如はわれわれも同じことですから、訳も分からず痛い目にあいました。パーシャル・デンチャーを考えるには、遠回りのようでも、もう少しペリオに踏み込まなければダメだと気がついたのは1975年頃のことです。
 1979年、押見一先生を誘ってシアトルのAAPに行かれるお偉方の団体に付いていきました。補綴関係の学会にくらべるとこぢんまりしていて、器材の展示なども教室一つぐらいでした。「マイナーな学会だなー」とは思いましたが口にはしませんでした。しかし学会では重症の歯周病罹患歯の保存が真剣にディスカッションされていました。迷い込んだよそ者なので、解説をうかがわなければ細かな内容は分かりませんでしたが、今になって考えると「アメリカ歯周病学会」最後の灯火だったような気がします。ご存じの通りその後この学会は、名前はそのままに「インプラント学会」に変わり、$まみれの姿に変貌していきました。われわれがすれ違ったのは、その一瞬前のことでした。

by my-pixy | 2006-12-13 18:20


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