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2016年 06月 16日
2011年3月11日から5年
f0103459_9371884.jpg 終戦の年の3月10日東京大空襲の記憶が蘇る3.11東日本大震災を受けて、自分に何ができるかを自問する日々が続きました。その直後、開催予定の臨床基本ゼミも中止するかどうかに迷いました。しかし、自分にできることは他にない一人の開業医の立場では、大巾定員割れでも実行するしかないと考えました。
 この年、少ない受講生により持ち込まれた高齢者の咬合崩壊症例は、何故か福島の悲劇や父の歯科医院の焼け跡の光景とオーバーラップし、自分が取り組むべき仕事として印象づけられました。
その後5年、咬合崩壊症例は止まることなく続き、何時しか私の最重要テーマになりました。今年2月にももくあみ会のテーマとして同じ問題を取り上げディスカッションしましたが、状況は少し変わりつつあるように感じ始めました。
問題は東北被災地だけのものではなく、歯科医療を取り囲む社会的な変革に連動しているとしか思えなくなってきたのです。KA367は身近な方々には理解されつつあるのですが、そんなことより歯科医師の技工離れや技工士不足が急速に顕在化しているのです。その結果、咬合崩壊症例への対応の第一歩となるプロビジョナルが遅々として進まないのです。セミナーや追加補講でどんなに頑張っても勤務先での診療が進まなければプロビジョナルは進化しません。こうした事態を少しでも減らそうと、臨床基本ゼミの受け皿もくあみ会で事後抄録症例集を制作中です。ほぼ脱稿しましたので臨床歯科を語る会までにはお披露目します。

by my-pixy | 2016-06-16 09:37
2012年 11月 11日
いのち・つながりの中で ・私にとっての3.11
f0103459_13183488.jpg 土曜日の午後、あてもなくやンネルを回していてこの番組にゆきあたりました。重いタイトルでやや戸惑いがありましたが「今、ここにはツナミ以前の何の面影も残ってない」というファーストシーンと。淡々としたナレーションに引き込まれました。

 ところどころにご本人の実体験を説明するためのシーンも出てきますが。90%以上は聞き手のアナウンサーと岡部先生の対話で、東北大学卒業後呼吸器外科医としてスタートしてから、その節々で出会われた印象に残る患者さんとの思い出を、医師としてより患者の視点からふり返られていることが印象的でした。

 40代前半のころ、治癒が望めない患者が自ら退院してしまい、初めて在宅での看取りを経験されます。在宅緩和ケアで住み慣れた家で家族に囲まれて、身体的にも、社会的にも、病院よりもはるかによい患者をみて「一体、おれは何をやっていたのか」と思い、終末期の患者をどんどん家に帰しました。当時は、一つ一つの経験がとても新鮮でした。」

「その後在宅緩和ケアを目指し1997年に岡部医院を開きました。在宅で良い看取りをするためには、医師や看護師だけでなく、作業療法士やソーシャルワーカー、介護員、鍼灸師、臨床心理士など多職種の緩和ケアチームが出来てしまった。結果的に、それは他の国の在宅ホスピスと同じやり方でした」。この後、岡部先生ご自身の胃がんが発見されます。

 こんな中で大震災は起こりました。総人数90人ほどになっていたスタッフの要だった看護師さんがツナミで亡くなられました。医局のミーティングにはいつも見守っている彼女の遺影があります。また多くの看取り経験をふまえて「お迎え」体験に注目されるようになります。一昔前「臨死体験」などともいわれていた体験を多くの人が語ると云うことです。
 ラストシーンはお寺の境内か、末期の方々のはなれのような小さな家が点在する小さな森の光景でした。その一隅にはツナミで亡くなった看護師をイメージしたお地蔵様が、赤子を抱いてひっそりと佇んでいました。

(岡部 健先生は本年9月27日に亡くなられました。今週末11月18日、東北大学で追悼シンポジュームが行われます。また文春12月号に亡くなられる6日前の対談が掲載されています。)

岡部健 室長 こころの相談室

by my-pixy | 2012-11-11 13:33
2012年 03月 11日
この人知ってる
f0103459_14473533.jpg思いがけないところからご連絡を頂きコンビニを回ってきました。一月ほど前にお目にかかったばかりなのでお元気なのは分かっていましたが、記事の大きさでちょっとびっくりしました。しかもカラーです。ちょうどあの時間ですが緊張からかちょっと目が。
カメラマン交替!!

ご本人からメールがきました。「先生もお気付きのように「歯医者さんだから診療している雰囲気で撮りたい」という記者のリクエストに応じて「まあサンゴ礁に傷をつける訳じゃないですし」と軽口を叩きながらのショットだったので目が笑っていました。
カメラはニコンのCOOLPIX、コンパクトでした。できればもう少し絞りを開いて汚いバックをぼかして欲しかったです。せっかくの機会なのに惜しい一枚です。先生、一眼でお願いします!!村岡 照夫

by my-pixy | 2012-03-11 14:50
2012年 03月 10日
3.10・3.11
f0103459_8204878.png 東日本大震災から満1年を明日に控えて、私にとっては戦災の記憶も甦る日です。神田にあった父の歯科医院が全焼して、その後片付けもそこそこに、単身残留する父を残し母と5人の兄弟ががらんとした家の縁側に並んで撮った写真が残っています。両親の間では厳しい会話と迷いがあったでしょうが、14才だった少年にはの何を考えたか記憶はありません。疎開は裏目にでて、このあと6人は直接の被災者になったり、遠い親戚の居候になったりしながら九州を転々とするのですが、どうしても較べてしまう2つの大事件が2日続きというのは因縁でしょうか。

 何が何だか分からず過ごした昭和20年でしたが、それがあるから今が少しは分かるような気がします。アメリカンドリームには憧れながら好きにはなれないのはこの黒いB29の蔭です。今日の大災害も地震とツナミだけならばこんな行き場のない気持にはならないはずです。沖縄戦から最後に原爆投下まで受けて日本中焼土と化し、お米の顔など拝めなくてもわれわれは頑張ってこられました。明日に希望を託すことができたからです。
 ばかな原子力政策さえなければ!太平洋戦争がなければ!明治以来の富国強兵!がなければと思うと人間とは困った生き物です。

by my-pixy | 2012-03-10 08:37
2011年 06月 13日
「非現実な夢想家として」
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 いつも貴重なアドバイスを頂く仏像彫刻家の端さんから、村上春樹のスペインのカタルーニャ国際賞授賞式でのスピーチをご紹介頂きました。超有名作家なのでで一つぐらいは読んでみようと手にしたことはあるのですが,2回とも途中放棄したことがあります。

 しかし「非現実的な無想家として」と言うタイトルのこのスピーチはさすがプロ!と感銘を受けました。3.11以後私が思いのたけを書きなぐってきたものに較べると何と洗練されていることか。特別な話しはないけれどすべてをそうだ!そうだ!と読ませる素直な表現にあらためてやっぱりそうかと感心しました。また地球に間借りという考え方にもひかれましたが、2~3年前のNHK「花のあとさき」というテレビ番組で、主人公のムツばあさんが自分の耕してきた畠を自然に帰そうと、紅葉の木などを植えていたドキュメントを思い出しました。有名人ではありませんが自分でそう感じ実践していった人、それ人柄に惹かれ長期間撮影を続けたカメラマンにあらためて感銘を覚えました。
村上春樹「非現実な夢想家として」 花のあとさき

by my-pixy | 2011-06-13 07:07
2011年 05月 11日
D7000との悲劇その後
f0103459_12585095.jpg もうそろそろ時効になる頃ですが、3.26 いわき市でちょっとした事件がありました。瓦礫の中に入り込んだ年寄りが足を取られて大転倒、ズームレンズは即廃品に、レンズがめり込んだカメラボディも入院になりました。人間の方も顔に膝に損傷を受けましたが1ヶ月半でほぼ回復しました。出かける前に迷った3100か7000かが完全に裏目に出たわけです。はしめは帽子とマスクで隠していましたが、だんだん目の下回りが発赤腫脹してきた時はあわてました。その時何人かの素人どもがそれは血が下りてきたのだとか解説され、形成外科でも同じ事をいわれびっくりしました。口の中とは違うようです。

 話しは変わりますますが、昨年秋から使い始めたニコンのマクロ85ミリ、大きさ重さなどは文句ないのですが、レンズ先端部の繰り出しがなく目盛りは電源部とコードの影になり、樹脂のカバーもついてるので視認は困難です。タムロンなどのように鏡胴にテープを貼ることもできません。最短距離や∞になってもヘリコイドはストップしませんからすこぶる不便です。それでも何とかなっているのは距離目盛り(倍率)を動かすことがないからです。そこで先週からそのままAFにして使い始めました。
 慣れてくるとカメラを前後させてピントを確認するよりはやはり楽です。ときどき等倍で使うようなときだけストロボの光量を1/2か1/4に落とすだけでAEはマニュアルです。露出は多少ばらついてもRAWならばまったく問題になりません。それにしてもカメラの話し随分書かなくなったものと驚きました。

by my-pixy | 2011-05-11 13:10
2011年 04月 25日
歯科 被災地支援チーム
f0103459_7471950.jpg 火曜会を中心にした総員12名の歯科支援チームが、深夜強行日程を終えて帰って来ました。断片的な情報だけで現地の状態は把握できず「自分たちがやろうと思っていた活動内容の半分もできませんでした」(筒井談)とのことですが、急に持ち上がった話へ対応できただけで十分だったと思います。

 バスの出発が夜の10時で、ちょうど行われていた基本ゼミの懇親会からの出発になりましたので、受講生の人たちにも予期しないインパクトがあっただろうと思います。現地到着が朝の9時ということでしたから、これだけでもぐったりするところですが、予定していた場所では治療が行えないといったハプニングも重なり大変だったようです。
 
 詳細レポートは、明日の火曜会でということですが、往復の長時間バスツアーでみんなヘタヘタになっていることでしょう。せめて今夜は一晩ぐっすり休み、明日話しをうかがいます。水曜の夜に持ち上がった初めての機会に、混成チームとはいえ技工士、衛生士を含めた強力チームを編成できたことは素晴らしいことですし、今後への大きな経験になったと思います。皆さんご苦労様でした。


 留守居部隊に回った基本ゼミの方も僅か9人の受講生ですが、それを上回る10人の講師陣が集合してのオープニングに、災地支援チーム歓送会もオーバーラップして、例年にない盛り上がりの中にスタートを切りました。15人より目が届くことは当然で、雑誌広告やWebからの参加者など孤立しそうな人への個別対応もできたかと思います。2日間でこれまでにない連帯感が生まれつつある手応えを感じました。

by my-pixy | 2011-04-25 07:51
2011年 04月 21日
歯科応急処置のボランティア
f0103459_15324636.jpg 火曜会の筒井純也先生が小隊長になり設楽先生,中村貴則先生プラス衛生士2名と筒井先生の同級生3人という構成で、お見舞いだけではなく現地の要請を受けての診療チーム派遣になったようです。
 20日(水)の夜に浮上したことでしたので、ちょっと無理かなとも思っていましたが、訪問診療用の器材や歯ブラシ1500本などももっての出発になりそうです。土曜日の夜行バスで現地入りし、日曜一日働いて深夜に帰京するというハードスケジュールですが、きっと大きな成果を上げてくるだろうと楽しみです。
 写真は震災から1ヶ月目に立ち上げられたという馬場・中山生活センターのものです。たった一日であっても、ここにバス1台の支援チームが入れば、どれほどか安らぎが届けられるだろうとチョッピリうらやましくもなります。留守番組は2011臨床基本ゼミ第1回です。

by my-pixy | 2011-04-21 15:26
2011年 04月 16日
気象庁から
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 たまにはコピーマンになって、水村氏が紹介していた気象庁のグラフを経時的に並べてみました。静かだった3.10から一転し、マグニチュードを表す赤いバルーンは10日後になっても消えていません。凄まじいエネルギーだったことがよく分かりました。別に盗作が意図ではなかったのですが、紙芝居的に1枚ずつではよく分からないのです。気象庁さんも水村氏のように広域にしたり、静止画ブラウジング表示を検討しても良いのではないでしょうか。こういう輩を「盗人猛々しい」というようです。

by my-pixy | 2011-04-16 10:46
2011年 04月 15日
他山の石
f0103459_10251142.jpg これだけの大災害が起こりながら、新興大国首脳が集まっての会議にオブザーバーとしてでも出してもらえないのでしょうか。僅か半世紀の間に原爆からの復興や、津波と原発という大災害を経験し、そこから立ち直ろうとしている経験や苦しみをBRICS達に訴えることは、欧米先進国にはできない日本の責務のはずです。

 温暖化防止を地球規模で考えねばならない最中に起こった原発問題。そんな時でも成長継続を指向し、国民感情とか世論とかあいまいなものに引き回される途上国のリーダー。
日本よりはましかもしれませんが、この4人の中にはチェルノブイリの責任がある大統領も入っています。25年が過ぎ石棺も崩れ新たなより大きな建造物が造られつつあることを知らないはずはありません。あれは旧ソ連時代のことだからと頬被りしているなんてあんまりです。

 どうも政治家という人たちは好きになれません。自分の身の回りさえ固めておけば退任後のことなんか考えるつもりは毛頭無さそうです。その範囲が大きくなるほど末端は切り捨てられるますから、10年か20年後のBRICSは恐ろしいと思います。

by my-pixy | 2011-04-15 10:25