2021年 03月 24日
大学を卒業後父の診療室を継承したものの西も東も分からず、同級生とスキー半分、仕事半分で集まるようになってから60年余が過ぎた。名もないままだった集団にも「火曜会」などという名前がつき、同級生は一人二人と減りって後輩がその後を埋めて縦型の集団になった。しかしそれも限界に来ているので、今週の基本ゼミを最期にすべてのイベントから引退しようと心に決めた。 臨床引退を決めた2018年の時点で、私の歩んできた道のほぼすべては小冊子「補綴臨床の60年」にまとめた。今後も歯科臨床の歩みが止まるわけではないが、私の果たした旗振りの役は終了したと考えている。 #
by my-pixy
| 2021-03-24 13:41
2021年 03月 17日
デジタル化以前のフイルム時代にはペンタックス時代には、メーカーの人たちとの密接な交流もあり、システムとしてはほぼ完成していた。しかしデジタル化の大波はそうしたものを、全て御破産にしなければならない大変革が迫られることになった。 デジタル一眼レフだけの問題であれば、ペンタックスのシステムでも対応できないわけではなかったが、昨日の記事にも書いたようなプレゼン全体の見直しや、記録システムなどを考えるとそれだけでは不十分だった。撮影時の照明やコンパクト化なども考え、ポスト・ペンタックスへの対応はどうしても必要で、コンパクトなミニリングを生かしながら、様々な試行錯誤を続けた。 自動調光への本格的対応は個人レベルの枠を超えていて思うに任せなかったが、それ以前の対応としては限界を追求したのがこのタイプで、少数生産の極限を負った最後の形だった。 製造側の事情や大きな型を作らないで製品をまとめることには「無理」が目立つことから、自力生産を諦めることになったラストモデルでもあった。(2010年代のことだが、ニコンのマクロ85ミリの使いやすさも大きな動機になった。)
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by my-pixy
| 2021-03-17 14:19
2021年 03月 16日
2000年のデジタル・クライシスでフィルムもカメラも大きな影響を受け、私自身もニコンD1を購入したり、インターネットへの参入など様々な試みを開始しました。得られるものは大きく、後戻りはできないと心に決めての慌ただしい日々でしたが、終わってみれば途方もない時間が過ぎていました。 このカメラシステムも20年余の葛藤、別れ、諦めなどの末に生まれたものです。涙の決別もあったにも掛からず20年をかけてこんなものです。 大きさを除けば、ストロボもカメラも、マクロレンズも、不満のない組み合わせができたとは思っています。 (ミラー、口角鉤、も大切ですが。)
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by my-pixy
| 2021-03-16 10:31
2021年 03月 16日
デジタル一眼レフの実用化が進むとともに、プレゼンや出版にも大きな変革が進み、大作が次々にまとまっていった。写真撮影が遅くなったために、少し古ぼけてしまっているが、2000年代初期の作品としてはどちらも力作で、現在でも十分評価できる。特に臨床ファイル3は装丁や英文化などにかなり苦心したことを思い出した。
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by my-pixy
| 2021-03-16 09:38
2021年 03月 15日
1900年後半には小型カメラでは、十分実用になりそうな予感をさせる機種が相次いで発売され、いつ、一眼レフの領域にまで広がるかが、大きな話題になっていた。われわれが使い慣れていたペンタックスは、1984年にリングストロボなどを含むLXシリーズを、トータルシステムとして発売していたので、デジタル一眼レフの先陣争いには加わらないと思われていた。 メディカル・ニッコールで先陣を切っていたニコンはそれあるが故に、あわててデジタル一眼レフ先陣争いにも加わる事情にもなかった。デジタル一眼で先頭を切ってきたキャノンは、われわれとは終始異なった進路を選んでいた。 下の画像のメディカル・ニッコールは当面の移行には便利だったが、この写真には入っていない大きな電源部の装置が必要だったので、先を見ると逆行するような感があり、少しずつ最前線からな遠のいていった。
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by my-pixy
| 2021-03-15 13:11
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