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2015年 05月 31日
ロッテルダムの水辺
f0103459_9403551.jpg 上の写真に写っている人はこの近くの港に古い帆船をおいてレストアしながら乗っている人で、この日ランチとセーリングにさそっていたがきました。備品の調達を含めてこの村に行くということでついてきました。横では網でとった魚を下ろしているイエローの合羽の人も写っています。
 こうした昔ながらの整備や部品調達をするところが大半ですか、中には中段のようなモダンな店も混ざっているところが興味深いところです。テレビの街歩きでもモダンな大型マーケットや、今風ガウディの集合住宅と、第二次世界戦戦争の戦火を免れたオールドタウンとが通り一つを挟んで共存し、それぞれの世代の人がその時代を楽しんでいました。そんな街の中で子供たちもいつしか歴史や伝統を身につけていく姿は何ともうらやましいかぎりでした。

ブログのリピーターも退屈されてスマホチャカチャカも多いと思いますが、もう2〜3日は続けるつもりです。

by my-pixy | 2015-05-31 09:53
2015年 05月 31日
ロッテルダム街歩き 3
f0103459_12475235.jpg 詳しくは知りませんがオランダの人たちは新天地を求めて北の方からやってきたのではないかと思います。ようやく到達した土地は海面すれすれで、まずは排水して土地を広げることが大目標だったのでしょう。遠浅の海ですからうまくゆきましたが、土地はフラットで雪山もなく、海も珊瑚礁どころか碧くもない不毛の地で、海運業などに頼るしかなかったのだろうと思います。

 遠浅の海では帆船のキールや バラストはつかえてしまうので、両側にハゼのようなひれを持ち風下側を降ろして帆走する独特な形を作り出しました。大きな船でも同様でバイオミミクリーそのものです。この形は干満の差が大きいノルマンデイなどでも、バラストを上下可動にしたセンターボーダーやツインキールなどに発展したようです。
 
張り巡らされた運河地帯の移動にはなんといってもディンギーです。風車にもディンギーにもセールは不可欠ですから近くにはセール屋さんが住みついていますし、漁網、船具屋さんなどもあれば、様々な木工作業をする工場なども点在しています。日本でもごく一部の地域には残っていますが、どっしり輿を下ろしたヨーロッパの人たちとは全く違います。ザイラー、キリーなどで大ブームになったスキーでさえ今はどこのスキー場も青息吐息です。

by my-pixy | 2015-05-31 09:32
2015年 05月 29日
ロッテルダム街歩き 2
f0103459_10251880.jpg 羊に追い返されたわけではありませんが、ここには十数機の風車が並んでいるので、隣の方に回ってみました。最近のことはどんどん忘れていきますが、撮影時はまだ50代でしたから、張られた風車のセールの美しさも刻銘に覚えています。良いものは若いうちに見ておくべきです。
 素晴らしいことは先日のテレビでも芝生からセールまでこのままなことです。変わり映えしないガラスのタワーで次々と埋め尽くされていく東京砂漠とは違います。今は機能はしていないかもしれませんが、神が創られた場所に人が土地を造ったという言葉があるように、風車がなければここは海面下だったのです。

by my-pixy | 2015-05-29 10:41
2015年 05月 28日
ロッテルダム街歩き
f0103459_13312546.jpg大相撲の照の富士以外はニュースも明るい話題はなく、だんだん就寝時間が早くなり困っています。
変わりようのない国内温泉旅行はXの筆頭、ヨーロッパ空撮もオリーブ畑と地中海だけ飛んで歩いても退屈と思っていたら、わが土竜のトンネルもカメラの話題、海外旅行の話がなくなって入れ歯一色です。

 そんな中で街歩きの番組でロッテルダムを見ました。この手の番組は行く先次第ですが、同じオランダでもアムステルダムではないところがミソで、戦争を挟む多面的な街の紹介が魅力でした。

 公園での新婚カップルの記念撮影、ハウスボートの木工職人、風車の管理人、帆船住まいと拡がって昔の記憶につながりました。先日整理した30年前のスライドの中からロッテルダム近郊を拾い上げて何回かアップしてみます。お世話になった現地の方々の消息は分かりませんが、新しい建築物ができても、当時の風景も変わらず共存し、世代は変わっても風車のセールを張り替えて管理していく人が絶えないことです。

by my-pixy | 2015-05-28 12:28
2014年 12月 14日
ガラクタ趣味
f0103459_9512524.jpg この一年身辺整理に明け暮れているが見るべき成果は上がっていません。
 処分した荷物はかなりの量になるはずなのですが、空いたスペースにはどこかに押し込まれていたガラクタがのびのびしているだけで、次の行く先は決まっていません。背広もネクタイも20年ぐらい買ったことはないし、ショッピングモールなどには足も踏み入れていないので、 ガラクタの大半は海外旅行にまつわるお土産品のようです。
 旅行中には後ろめたさも手伝ってお土産の買い物には時間をとられるものですが、自分が気に入らない観光土産などは絶対に買わず、送り先のことも考えるのですが、ついつい自分の欲しいものとの境界がはっきりしなくなってしまいます。有名観光地のプラスチックやペンキで塗りたくったようなものを避けていると、上の画像のようになってしまいます。
 手作りなのに値段は安いマダガスカルなどは鬼門の最右翼です。一番左のバオバブの木などは全長70センチもある未完製品ですが、CADCAMなど糞食らえの味わいがあります。 
 スライドは何とか退治しましたが、やっつけのコピーにはオリジナルの味わいはなく、正倉院御物でもないガラクタとどう別れるかはさらに大問題です。

by my-pixy | 2014-12-14 10:39
2014年 09月 18日
1996年5月連休
 ちょうどデュープがさしかかったホルダーの中に忘れかかった画像が入っていました。1996年の5月の連休ですが、とくに行き先を固定せず一週間ほどの間によくあちこち歩いています。しかしそのいずれにも溢れるような人間性があります。まだ十数年前のことですが今では考えられないような変化が、この直後から起こるのです。
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by my-pixy | 2014-09-18 12:38
2014年 06月 01日
旅の終わり
1月26日
 朝6:30慌ただしくSがパリへ飛ぶため部屋を出てゆく。寝ぼけ眼で別れの挨拶をする。ちょうど一ヶ月何のトラブルもなく快適な旅を続けてこられた事に感謝する。色々な点で一人では考えられない一ヶ月だった。また他のパートナーを考える事もきわめて難しい旅だったと思う。今日から僅か数日ではあるが一人の旅が始まる。これもまた楽しみだ。
 8:30起床、駅に荷物を預けて町を3時間ほどうろつく。Zurichは古く美しい町だとしみじみ思う。Central stationの前の綺麗な堀に白鳥やカモメや鴨などが群がっている。スイスの都会そしてコペンなどでも見慣れた風景だが、日本に帰る日が迫ってきた今、こういった情景をいとおしむことひとしおだ。
 あとどれだけの時があれば、こういうシーンをが日本でも見られるようになるだろうかと思うと淋しくなる。JALからSwiss Airへの変更などもあったので、さすが一人で乗込む飛行場での1時間は心配だった。ジュネーヴ経由でベイルートへ。途中空から見るアルプス、特にかすめるようにして飛んだモンブランは圧巻だった。ただ席が真中で充分見たり写真を撮ったり出来ないのは残念だった。ジュネーブでインド人と覚しき連中が大分増える。ほとんど満員なのに5列のシートのせいかSASのDC-8のような窮屈さは感じない。N.Y-コペンの時の東南アジア人と同様、前のインド人らしい3人連れがうるさい。少数だがこういったマナーに関しては欧米人との差がひどい。両横の英国人達の細かい気の使い方とは雲泥の差だ。右側の大学院の学生と覚しき2人連れと時々話しながら時を過ごす。地中海の夕焼けが美しい。ランチにZurichで食べたいと思いながら食べられなかった肉とゼラチンを入れたパンにありつき満足。

 スキーで、歯科診療で、その他の生活それぞれに日本のそれとはかけ離れた素晴らしいものを沢山見た。そして啓蒙させられるところが多かった。しかし結局日本で生活しなければならない。スキーも日本でほとんどしなければならない。ではどうすればよいか。子供には早い中に海外で生活させたいと思う。これは自分の夢をせめて彼によってでも達したいという単純なもの。何処でどの位の期間?難しい。言葉のハンディを痛感。日本語は損だ。何かにつけて日本は人間が多すぎる。

50年後・2014.6.4
 こんなことを考えながら深い眠りに陥ったようで日記は突然途切れている。南周りのボンベイ、カラチなどで、薄暗い空港の中を全員裸足の空港職員が動き回っていたことや、トイレに子供を抱いた女性がチップをもらおうとうずくまっているのを見て、始めて遠くに来ていたのだと思った。シンガポールでは何とか安ホテルに泊まったが、ここで有り金はすべて使い果たし、バンコックの居候先の知人に頼んで、フィルムの無くなった8ミリカメラを売ってもらって、貧乏生活から脱出したことを覚えている。
 一方、安全策で北回りを選んだS氏も空港カウンターで盗難事件とか。旅行中は日々相手との残高照合を怠らなかったのだが、この時どれほどだったかは今も聞いていない。持ち出し金の調達は何とかできたが,その他に航空運賃などさまざまな出費をよくもかき集めたものだと思うし、男2名、行く先々での居候先の方々には大きなご迷惑をかけお礼の言葉もない。お陰様で50年後の今日に及ぶとてつもないプレゼントを頂き高度成長の波にのることができた。

 旅のパートナーで今回も突然のブログ公開のため埋もれている資料発掘に甚大な努力をして頂いたS氏こと須佐美康治君に、最後のひと言をとお願いしましたが次のメールがきました。
「私の役目はもう先ほど終わりました。
考えたあげく、あの時は、どうしても行きたくなって行ったとしか言いよう
がありません。どう考えても理由はそれだけ、理屈ではないのです。
そして、いろいろあってたいへん面白かったとも思っています。


by my-pixy | 2014-06-01 08:47
2014年 05月 31日
ブンデスハイム
f0103459_18422776.jpg1月24日
 絶好とは言えないコンディションに悩まされたわれわれのスキーの最後の日。一縷の望みを託して目を覚ます。まだ明けきらぬ空ははっきりはわからないがどうやら青空らしい。9時にホルストに会うことになっているがその前に一稼ぎとばかりにバタバタと支度をして飛び出す。しかし谷間のクリストフには陽は当たらず微かに陽が当たり出した山の頂きは電線が邪魔になり写真にならない。仕方なくイライラしながら部屋で待つ。9時バルーガまで登る。途中で雲がぐんぐん増えてきてガルツィックではすべてが雲に隠され風も吹きまたZermattの二の舞かとすっかりショゲ返った。しかしバルーガへのケーブルの途中から雲の上に出ると雲1つない好天で思わず飛び上がりたくなる。途中で写真を撮っていたSとはこれ以来1日中バラバラになってしまう。バルーガから新雪の大斜面をホルストのクラスと共に滑る。写真も撮りたい、滑りたいで迷うがこれ1回はスキーと諦める。やはり晴れると流石壮大なスケールで夢のような大斜面が様々な変化をもちながら延々と続いている。ホルスト始めクラスの連中が新雪を蹴立てて滑るのを撮りたいがただ付いて行くだけでも精一杯でとてもリュックを下ろす暇はない。おじけづいていた新雪をかなりのスピードで滑れるようになってくる。勿論軽い雪に助けられてはいるがZermattの時よりは重い。しかしスキーはうまく横ズレしてくれる。途中からは調子づいてきてクラスの先頭の方を滑る。11時クリストフに帰り解散。カメラを持ってすぐ上がるというホルストを追う。ガルツィック付近で新しい斜面を探すが僅かに2〜3時間の間によくもまぁと思う斜面までシュプールが刻まれていてなかなか思うような斜面がない。それを探しながらかなり厳しい新雪の斜面を大分滑る。思ったよりうまく行く。長い谷間の緩斜面では彼を追ってクラウチングで生まれて初めてと思われるようなスピードで滑る。恐怖はほとんどない。ほとんど写真は撮れなかったが思う存分のスキーはした。ただ時間が残り少ないのが気になり、残念ながらホルストと別れ単独で写真に専念する事にする。ホテルに帰り急いで食事を済ませバルガーへ。ケーブルは混んでいて大分待たされる。朝のうちは多少雲が残っていた、天空もすっかりピーカンになりバルーガから更にケーブルを乗り継いで行った展望台からの眺めは凄まじいばかりで日本の山が山脈という名の通り一列の山並みであり線であるのに対しここでは線を見出す事は出来ない。見渡す限り3000メートルクラスのピークが一面に敷きつめたように広がっている。しばしあまりの凄まじさに呆れかえっていたが思い出してカメラを取り出す。しかしこのお花畑のように延々とそれぞれ美しい山々をファインダーの枠でカットする事はひどく難しい。目をつぶってシャッターを押しても写真になることは間違いない。しかし自分の意志で何かを撮り何かを捨てなければならないとなるとこれはまたどうしたらよいのか全くわからなくなってしまう。岩の間にシュプールが見え隠れし黒い点が良く見れば少しづつ動いている。20〜30分ほどして下り始める。あちこちキョロキョロ見回しながら時々カメラを出してはまた滑る。何とかこの壮大な山とスキー場のスケールを記録したいと思うがなかなか思うにまかせない。16時頃クタクタに疲れて帰る。黒岩君が来て暫く喋る。Bandes heimでホルストと会う。       
 
1月25日
 7時起床。名残を惜しみつつEderweissを出る。また雪、昨日の好天がウソのようだ。8:36St Anton発Zurichへ。列車の中でChurのインストラクターと色々話す。Zurichでスキーをアナカンでまた不要なものを大分苦心してSea mailで送る。これで少し身軽になる。しかしその後食事をしホテルのバーで一杯飲んだだけで1日が終わってしまった。静かなバーで久しぶりに少し落ち着いて考えたり話したりする。振り返ってみると慌ただしい毎日でほとんど何も考えたりすることのない毎日だった。ヨーロッパ最後の夜と思うと多少なりと物を考える気分になる。

by my-pixy | 2014-05-31 08:43
2014年 05月 30日
待望のチロルへ
f0103459_18144286.jpg1月21日
 6時半起床。7:30のArlberg ExpでSt Antonへ。隣りの国へ行く列車の方が遥かに便利で、昨日Zermattから2度乗り換え6時間以上かかってZurichに着いたのに、St Antonへは乗り換えもなくほとんど同じ距離を僅か3時間で着いてしまう。この辺では急行でも特急でも急行券はないし列車内はかなり良くなる。こういう列車を使わねば全く損だ。初めての国際列車で10:45にSt Antonに着く。St Antonは聞きしにまさる寒村の小駅という感じで線路のすぐ横から上越のスキー場のように広がるゲレンデがなければ全くスキーのメッカとは信じられない。やっと見つけてタクシーでSt Christophへ。ブンデスハイムでシュバルツェンバッハを探すがこれがまたひどくお粗末な建物で入り口も受付もわからず散々苦労する。ようやく12時半頃彼をつかまえる。キビキビと宿の事など面倒をみてくれる。スキー場の印象はスイスのものと異なりどちらかといえば日本的である。勿論スケールは大きいし斜面の変化もあるがスイスのそれが上に行くほど広大となり町の近くは細い山道であったのに反しここはどちらかといえば下に広がった形で幾つかのゲレンデが連絡されているという感じだ。いわばスイスのスキー場は広大な山の斜面から町まで細いコースをつけたものでありここでは前者の要素はなくなって広大なゲレンデがあるという感じである。山のスケールは大分小さくなるがコースは遥かに難しくなる。バンプが多く斜度はきつい。スキー学校はがらりと変わり同じようにコースを列になって滑るにしてもスピードは遅くかつ細かく止まっては注意しながら滑っている。スイスではインストラクターは単にコースの先導者という印象だっただけやはりこの方がピンとくる。新雪の斜面にはおなじみのシュプールがあちこちに残されている。ここのインストラクターの中にも色々程度はあるようだがそれでもさすがに格調ないスキーぶりでそれを見て滑るなかに少しきちんとしたスキーを思い出す。Christophからケーブルでガルツィックへ。そこからSt Antonへ。またケーブルでクリストフへなど2時間ほど滑って早目に帰る。どうもこのところ少しく疲労気味だ。宿の食事はあまり良くないが快適。

1月22日
 雪がさんさんと降っている。ツェルマット以来の悪天候がついてまわっている感じで嫌気がさしてきた。また眠って10時頃起きる。事情は変わらず朝食後前のホテルの床屋へ行ってくる。そして昼食。午後St Antonまで出掛ける。Mr.TachikawaのBMW1800に同乗。ご機嫌な車だ。バッチなど仕入れて帰る。時間潰しに苦労。昼寝3時間余り、これで睡眠不足から完全に回復した感じだ。夜隣のホテルのバーに出掛けて1日を終える。全くもったいない。

1月23日
 相変わらず雪とガス。全く頭にくるがもう眠って暮らすわけにもいかず勇を鼓して出掛けるが面白くないこと甚だしい。上越のようにドカドカ降ってくる。1時間ほどで帰る。引き上げたい気分だが今日Zurichに帰っても明日は日曜日で店もJALも休みだから動きがとれない。土、日曜日を完全につぶされるのは閉口だ。クリスマス、正月を加えもう1週間近くを無為につぶされている。仕方のない事だが苛立たしい。昼休みにホルストを訪問する。相変わらず調子がいい。良すぎて話にならない。ともかく午後から一緒に来いという事で渋々また支度をする。雪、ガス共相変わらずしかもケーブルでガルツィックまで登ると言うので全くおじけづいてケーブルに乗る。頂上は視界10メートル位の一面の乳白色の世界でかなりの風。いよいよ怪我をしなければと祈るのみ。ホルストは生徒を待つからと言うのでMr.黒岩と滑ることになる。ホルストから早過ぎぬようにとの注意がある。全く西も東もわからないのでただ彼の後を追う。流石滑り慣れている彼はどんどん下りて行く。風に吹き固められた新雪がターンと共に小さなブロックになって崩れてシュプールが刻まれる。1人なら当然ボーゲンでもやるところだがメンツもあるし死んだ気になって恐る恐るリュックラーゲで怪しげに曲がってついて行く。彼は見事にまとまったフォームで新雪をぶち壊して行く。いくつかまわる中に少し感じがわかり恐怖心も薄れてきた。ところが今度はコブだ。彼は軽い屈伸をしながら斜滑降して行き適当なコブを見つけてヒョイとまわりこむ。その感じがひどくいい。こちらはコブの上で飛び上がって底にドスンと落ちる。膝がかたいからショックが直接上にきてつぶされスキーがパレる。随分ゆっくり滑ってくれているがこちらは真剣に追う。しかしこれも暫くすると大分良くなった。良い先導者のいることをこれほど有難く思った事はなかった。ともかく午前中はもう2度と滑るまいと思うような天気だったのに大変楽しく悪天候の中でも滑りまくった。昨日の1日を惜しく思った。


by my-pixy | 2014-05-30 08:40
2014年 05月 29日
ツェルマット
f0103459_938315.jpg1月18日
 目を覚まし外を見ると雪が静かに降っている。山はほとんど見えない。途端に起きる気がしなくなる。9時過ぎまでゴロゴロしていたが他にする事もなく渋々食事をして出掛ける。ゴーネルグラード行きのケーブルの中でまた英国人と話す。天候不良の為1つ手前の駅で降りたがそれでもひどい。仕方なくすぐ下へ下ることにする。ところが未だほとんど人が下りていないので風で固められた新雪に散々悩まされ食事に。ホテルに帰ったまま2時間ほどひっくり返る。14時勇を鼓して再度、今度はGanelgrardの終点まで登る。今度はかなり踏み固められていて快適に下りる。ひどく怠けた1日だったが考えてみれば標高差3000メートル余りを滑っているわけだ。夕方町をぶらついていた時Zermattに着いた最初の晩ホテルのフロントで一寸逢った日本人と会い、ビールなど飲みに入り話をしている所へ入り口でキョロキョロしている日本人と覚しき男。これを拾いSを加えて4人で町をぶらつく。前者はパリのパスワール研究所に勤めるハナもちならぬ変な日本人。後者はN.Y、JAL勤めのこれまた行動力に富んだ単細の日本人。この町第一のホテルに仂いている日本人がいるはずだからというので、誘いに行き午後10時彼の妻を加えて総勢6名でバー2軒をまわる。海外で生活する日本人サンプル集の如く大変興味深くまた夜のZermattも面白かった。

月19日
 今朝も悪天。昨日よりはいくらか良いようだが望みはない。ただ今日は昨夜のムッシュパリが一緒にスキーをしたいと言うのでそれをかまう楽しみがある。連日の睡眠不足で不調。これは薬石効なく閉口である。これとトレーニング不足とが重なり何とも調子が悪い。おまけに広いスキー場、良い雪に恵まれスイスの怪しげなインストラクターを見ながら滑っているのでだんだん悪に染まり日本に帰ると使いものにならなくなるのではないかと心配。ゴーネルグラート付近で電車を使って滑る。長いが単調でやや飽きる。ムッシュは大体予想通りで昨夜に比べるとひどくおとなしくなる。愉快。15時頃町へ下る。夜はホテル勤めの松山夫妻とフォンデュなどスイス名物料理を食べる。あまりピンとこなかった。ジャガイモを使ったラクレットは美味しかった。待望のマッターホーンが空に4日ぶりでやっとその姿を現す。寒いし気圧計の計も上昇しつつあり明日こそは写真が撮れそう。

1月20日
 まだ明けきらぬ空にマッターホーンがくっきりとそびえ立ちそのすぐ上には丸い月が残っている。待つこと4日目にしてようやく恵まれた晴天だけに喜び勇んで、今日こそとばかりに張り切って飛び起き急いで宿を出る。ケーブルカーの動きがひどく遅く感じられる。ゴーネルグラートに着く。少し前から空にポツポツ白い雲が現れ始める。ピーカンより写真には好都合だなどと話していたが雲はその後急速に広がりだし、ケーブルが着く頃にはモンテローザはその頂きを灰色の雲に隠されてしまった。しかし未だ青空の方が大分多いのでもう少し上へ行こうと、スキーはコース閉鎖の為置いたままストックホルンへのケーブルへ乗り継ぐ。ひどく寒く2本のケーブルでストックホルンに着いた時は冷えきってしまいそのうえ青空は僅かになってしまった。寒さに痛めつけられながら暫く待ったが事態は悪くなるばかりで遂に諦めて再びケーブルで下る。急にガックリしてゴーネルグラートからは最低のスキイングで這うようにして下る。フェルマットに着いた時、空は完全に閉ざされマッターホーンのみ灰色の空に黒々とした岩肌を見せていた。
 これでは明日も期待出来ぬと荷物をまとめてZurich経由でSt Antonに移動することにする。急な予定変更でホテルのフロントとの間に多少ゴタついたがPM2:45の列車でZermattを離れる。色々と恵まれぬZermattの4日間だった。スイスの列車はどうも細切れで乗り換えに悩まされる。接続は良好だが面倒以上によそ者にとっては難関が多く閉口だ。Zurichに21:15に着く。食堂などで定食の押し売りにあい乏しくなってきた財布から800円あまりとられたのは痛かった。


by my-pixy | 2014-05-29 08:35